カテゴリ:題詠2010の好きなうた( 3 )

公園の冬のベンチを温めるぼくらは一生補欠でいよう   ウクレレ

一番好きな歌↑
スポーツにおける補欠ではなく、人生における補欠という意味合いに受け取った。
人生の補欠って悲壮感がありそうだけど、ぼくらは、って言ってるところと
冬のベンチを温める、ってところに、救いがあると思う。
スポーツにおいては、ベンチを温めることは皮肉な言い回しだけど
人生においてベンチを温める二人って、悪くないんじゃないかなって感じた。


公園のすべり台から夕焼けが子鬼のように近づいてくる   ぱぴこ

とても好きな表現。子鬼のようにのとこ特に好き。すべり台に映る夕焼けをこう表現すればよかったんだ。

初めてのキスするために公園はニューバランスの靴跡だらけ  太田ユリ

公園で他人同士になったあと同じ布団で眠るきょうだい   黒崎立体

いくつもの言わぬが花がこそこそとつぼみを揺らし夜の公園   笠原直樹

公園のジャングルジムの赤錆びたパイプにホームレスの七人  邑井りるる

製材所のとなりに見える公園のジャングルジムの撤去が決まる   れい

土曜日はよそ見をしよう公園にバドミントンを持って出かける   藤野唯

「公園で遊んでこいよ」いまどきの親でも言わない言い草ですよ   壬生キヨム

公園の動線を断つ 口にした葡萄ジュースを遠く飛ばせば  高井志野

「公園で待ってるから」の一言で、あなたの望むことは分かった。   龍翔 

色褪せた喫茶店より眺めやる桜にけぶる公園に吾子   祥

(敬称略)
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002:暇

待ち時間暇もてあまし床見れば過ぎ行く靴は百人百様  のわ

病院や、市役所などの待ち時間だろう感じた。人がたくさん通り過ぎるくらいの長めの時間を、ずっと床の方を見ているということから、なにか特に楽しい待ち時間じゃないんだろうと思う。そういう時に、過ぎゆくだけの人の靴を見るともなく見ているのは、人間のリアルだと思う、人間的でそこがいいなと思った。


暇があれば会おうね(だけど暇だとは言わないくせに)三月の雪  高松紗都子

002:暇で、このようなモチーフの歌が結構あって食傷気味の中、この歌はきもちよく心に入ってきた。「暇があれば会おうね」は相手が言った言葉だろうか。その言葉を思い返しながら、でもあなたは暇だとは言わないくせに、と思う。三月の雪のように、これから無くなっていくもの、会えなくなっていく予感、そんな切なさが加えられている。相聞歌として読むのが魅力的かもしれないが、友人が言った言葉(また遊ぼうね、のような)とも、自分が言った言葉(また会おうねと、とりあえず言っておこう、のような)とも、とれる。


暇、とだけノートのはしに書きこんで頬杖をしたきみはほほえむ  いさご

暇という題でネガティブな歌が多い中、やさしくほの明かりしていると感じた。図書館だろうか、授業中だろうか。しゃべってはいけない状況の中、暇、とノートの端に書かれた文字は、自分に向けられている。そしてほほえみもおそらく自分に向けられている。青春って感じ。
もしくは、これはきみの自己愛を見ているだけの歌だったりしないだろうか。きみは、まっしろなノートの端に、暇とだけ書いて、(そう書き込んだ自分に酔いながら)頬杖をして微笑んでいる。それを見ている。


隙と暇からだじゅうから発散し思春期のむれ自転車で行く  リンダ

学校帰りの中高生が自転車で群れて通りすぎていくところだろうか。隙と暇、とはそういう若い体の感じを言い得ている。発散という言葉だと、まるで隙と暇が自転車をこぐことで解消されているようにも感じる。実際は解消されていないのだろうと思うので、外にまき散らしているととるべきなんだろう。隙、というところになんだかエロティックなものを感じる。ああ、そんなところまで見えてる、自転車に乗っていると、そうなるのに、というような。

書くことのどれもこれもが嘘っぽい暇にしているからだとおもう  本田瑞穂

たくさんたくさん書いてきた、書いている、そういう人の作った歌だと感じる。実感というか、真実があるのだろ思う。(できれば、暇だから嘘っぽいことしか書けないというのは真実ではあってほくないのだけど。)すんなりと、ため息をつくように歌われていて、そこがまた現実のことなんだなと思う。こころに残ってしまう。




自分用メモ:
題詠するとき、きっとこれが定番だろうなっていう内容を思い浮かべて
それ(お題から受けるもっとも一般的な感じ)を突き詰めたのを一首、
まったくそれに触れない、題を違う珍しい語にしたもので一首作るようにしたいなあ。って思う。

メモ2:
リアルだ、って褒めるのはどうなんだろう。褒めてることになるのかな。

メモ3:
この文章なんだか読む気になれない。つかみが悪いのかも。
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001:春

雪国に行くトンネルを反対に抜ければそれが春ではないか  あみー

春とは何か、春とはどこにあるのか。そのシンプルな回答がこの歌なんだと思う。
有名な『雪国』の冒頭文を借りることで、春と対向するイメージを広く大きく作り出しているように感じた。
トンネルを抜けるのだけど、なんだかそこには人の目がないみたいだ。
電車がというより、
春とは何かという回答が矢印を描いてトンネルを抜けていくようなイメージ。
現実的でない感じ。


車椅子で自由に動ける春を待つ 本当は冬も好きなのだけど  橋都まこと

車椅子で動く立場からみた春。
冬は雪が降っていたりして、車椅子では自由には動けない。
はっとさせられる。
本当は冬も好きなのだけど、のところ。寒いなかを、雪の中を進みたいのだ。
切実なことなのに、軽やかにうたっているところがいい。


いきている壜をえらんで汲みにゆく春の水ならこぼさぬように  村上きわみ

ひらがなと漢字の配合がとてもきもちいい。
いきている壜は生きている瓶ではいけないし、選んでも零してもいけない。
いきている壜だけが春の水をこぼさずに運べる、そう納得する。
たとえば、実生活で壜に水を入れてこぼさずに運ぶ時に、
その生活の薄い膜の向こう側で、
いきている壜で春の水を汲む姿が、向こう側の世界に確かにあるのだ、という納得。
今いきているこの世界の姿から見えてくる、向こう側の世界を見せてくれる。
春という、万物が生きるということをし始める時期のそんな水は、
いきている壜で汲まなくてはならない。


まず雨にうたれた 白線をこえた おまえが投げわたす春菊は  我妻俊樹

春菊だけを追うカメラワークで、春菊が色濃く浮き立っている。
雨の当たらない所から投げられて、雨の中を通り、白線を越えて渡される春菊。
時間がまっとうに進んでいない。スローモーションでもない。
不気味な春菊だ。雨に打たれてずんと進み、白線を越えてずんと迫ってくる。
言葉が、日本語の言語野(脳)で、イメージを構築するのだけど、
その時に中でいつもと違うやり方をされている感じ。


(敬称略)


あと、短歌の一人称が「俺」の時、おおって思う。
なんでだろう、珍しいから?荒々しいから?草食系っぽくないから?かなあ。
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